韓日歷史問題 e-Conference
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古代韓日交流
1. アクセサリーからみた倭と古代朝鮮の交渉史-5世紀~6世紀前葉における九州地域の事例 l 高田貫太 博士(日本 国立歴史民俗博物館)
古墳時代のさなか、5、6世紀の倭の有力者は貴金属のアクセサリーで着飾っていた。新羅・百済・大加耶から贈られたものや、それを「倭風」にアレンジしたものである。5、6世紀には鉄や金工、須恵器、騎馬などの様々な文化が朝鮮半島から倭にもたらされた。倭の各地の有力者は、朝鮮半島の諸社会と政治経済的につながり、みずからにしたがう人びとに安定して先進の文化を取り入れる機会を提供する必要があった。その実力を表象したのが、貴金属のアクセサリーだった。
特に5、6世紀の九州地域には、アクセサリーで着飾りながら、倭王権の外交活動に参与した上位の有力者や、地域社会の主体的な交渉を実際に担った中間クラスの有力者などが存在した。そのような人びとの姿を明らかにすることで、当時の躍動的な日朝関係の実態が浮き彫りとなる。
2. 古代日本と韓国の文字文化- 東国の石碑を中心に l 橋本繁(慶北大)
古代日本の文化は、韓半島から多くの影響を受けている。日本で出土した『論語』や千字文を記した木簡には、韓国の『論語』木簡と同様に棒状の木簡に書いたものがある。
古代日本の東国に残る石碑の形状をみると、自然石をほとんどそのまま利用しているものがある。このような石碑は中国にはみられないが、6世紀の新羅では一般的であった。四角柱状の碑の本体に装飾のない笠石が載せられたものは、真興王巡狩碑と酷似する。内容では、唐の年号が使用されているのは、この地域に定住した新羅からの渡来人が伝えたものである。「七世父母」という表現は、百済滅亡後に作られた仏像の銘文と共通する。また、日本語の順番に漢字を並べた文体は、新羅の壬申誓記石などと類似している。
このように古代日本の石碑に韓半島の影響がみられる背景には、渡来人の移住があった。
3. 古代百済人の住居:奈良盆地の大壁建物 l 青柳泰介 博士(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
奈良県内の古墳時代~古代の韓半島系渡来要素のうち、百済系建物と考えられる「大壁建物」を取り上げます。これは溝を方形に掘削し、溝内に柱を密に配置した特異な建物です。建築用語では、柱が壁に埋め込まれて外側からは見えない構造の建物を指します。特徴のある下部構造をしていますので、地域色を把握しやすい建物でもあります。日本列島では5世紀前半からは奈良盆地南部、6世紀後半からは滋賀県大津市北部、7世紀後半~10世紀代は東日本に集中し、韓半島では百済地域、特に中枢部に集中する傾向があります。なお、この建物が確認される遺跡の性格をみていくと、日本列島では官衙や豪族居館などの地域の核となる施設、韓半島では百済の首都周辺の重要施設で確認される場合が多いので、百済系官人との関係を想定できそうです。このように、古代の日韓関係を考える上で、この建物が最適だと思いますので、奈良盆地での具体例をもとに考えてみたいと思います。
4. 日本に渡った百済王族と大阪の遺跡百済王氏の氏寺『百済寺跡』 l 大竹弘之(靑邱考古研究院)
663年、白村江での百済復興軍の大敗で、義慈王によって倭国に派遣されていた王子の禅広は、兄の豊璋と帰るべき祖国を共に失った。そこで天智天皇に難波に居住を許され、持統朝には「百済王」の称号を受け、朝廷に仕えた。この頃に営んだ氏寺が摂津百済寺(堂ヶ芝廃寺)と百済尼寺であった。
禅広の曽孫、百済王敬福は、天平21年(749)に任地の陸奥国で砂金を発見し、黄金900両を東大寺盧舎那仏造立に腐心中の聖武天皇に献上する。敬福はその功により破格の位階昇進を遂げ、以後の一族の処遇を盤石なものとした。また敬福以降、一族から陸奥・出羽等の国司や鎮守府の高官への補任が打ち続く。
桓武朝、長岡京遷都の頃には百済王氏は河内国交野に移住し、新たに交野百済寺を造営していた。交野で桓武天皇の信任を得て寵を受けたのが敬福の孫、百済王明信であった。桓武・嵯峨両天皇の頻繁な交野行幸の折毎に、百済寺一帯を舞台に饗応を繰りひろげ、一族は昇進にあずかる一方、後宮に子女を入内させ、外戚としての地位も固めたという。しかし桓武天皇崩御後には次第に逼塞していく。
百済寺跡はこうした百済王氏の交野移住以後の活動の舞台であり、盛衰を共にした遺跡であった。そして百濟王神社が百済寺跡とともに百済王氏の歴史を今に伝えている。
5. 京都府南部(山城地域)の韓半島関連遺跡と遺物 - 古代の寺院を中心に l 菱田哲郎 敎授(京都府立大学)
京都府南部の山城地域は、王権を構成する畿内に含まれ、倭国の国家形成の段階から重要な役割を果たしてきた。韓半島からの渡来人の痕跡も他の畿内諸地域と同様に多く認められる。とりわけ宇治市街遺跡と森垣外遺跡は、5世紀から顕著な渡来系の遺構や遺物があり、王権の拠点の周辺に技術や知識をもった渡来人が集住していたことがうかがわれる。6世紀には仏教が百済から伝わり、その後、飛鳥寺の造営からは本格的な寺院が建設されるようになった。京都府南部の山城地域は、7世紀前半から寺院が営まれた地域の一つであり、今日まで法統を伝える広隆寺をはじめ、古刹を生み出してきた。その背景にはこの地に定着した渡来人である秦氏の活躍があり、とりわけ新羅との外交などでも活躍したことが遺跡や遺物にも表れている。そして、南山城地域にはコマの地名のほか、高句麗との関係を物語る資料が多く残される。高句麗使のルートにも沿っていたことがその背景にある。山城地域は、のちに長岡京、平安京の都城が成立するが、その基盤となったのは韓半島からの渡来人が根付かせた技術であったと考えられる。