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韓日歷史問題 e-Conference 古代韓日交流 l 弘益財団

본부 2022-04-04 13:30:38 조회수 6,467

韓日歷史問題 e-Conference


·リンクアドレスhttp://hongikf.org/sub/sub03_02.php?p_idx=14

·Youtubehttps://www.youtube.com/playlist?list=PLW7DupNx5uv6k4G66tTqYdBJJn4MzCdkh 

·主管 ‧ 主催財団 (http://www.hongikf.org) 


古代韓日交流




1. アクセサリーからみた古代朝鮮交渉史-5世紀6世紀前葉における九州地域事例 l  高田貫太 博士(日本 国立歴史民俗博物館)

 

古墳時代のさなか56世紀有力者貴金属のアクセサリーで着飾っていた新羅百済大加耶からられたものやそれを倭風にアレンジしたものである56世紀には金工須恵器騎馬などの々な文化朝鮮半島からにもたらされた各地有力者朝鮮半島諸社会政治経済的につながりみずからにしたがうびとに安定して先進文化れる機会提供する必要があったその実力表象したのが貴金属のアクセサリーだった

56世紀九州地域にはアクセサリーで着飾りながら倭王権外交活動参与した上位有力者地域社会主体的交渉実際った中間クラスの有力者などが存在したそのようなびとの姿らかにすることで当時躍動的日朝関係実態りとなる

 

2. 古代日本韓国文字文化- 東国石碑中心に l  橋本繁(慶北大)

 

古代日本文化韓半島からくの影響けている日本出土した論語千字文した木簡には韓国論語木簡同様棒状木簡いたものがある

古代日本東国石碑形状をみると自然石をほとんどそのまま利用しているものがあるこのような石碑中国にはみられないが6世紀新羅では一般的であった四角柱状本体装飾のない笠石せられたものは真興王巡狩碑酷似する内容では年号使用されているのはこの地域定住した新羅からの渡来人えたものである。「七世父母という表現百済滅亡後られた仏像銘文共通するまた日本語順番漢字べた文体新羅壬申誓記石などと類似している

このように古代日本石碑韓半島影響がみられる背景には渡来人移住があった

 

 

3. 古代百済人の住:奈良盆地大壁建物 l 青柳泰介 博士(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)

 

奈良県内古墳時代古代韓半島系渡来要素のうち百済系建物えられる大壁建物げますこれは方形掘削溝内配置した特異建物です建築用語ではまれて外側からはえない構造建物します特徴のある下部構造をしていますので地域色把握しやすい建物でもあります日本列島では世紀前半からは奈良盆地南部、6世紀後半からは滋賀県大津市北部、7世紀後半10世紀代東日本集中韓半島では百済地域中枢部集中する傾向がありますなおこの建物確認される遺跡性格をみていくと日本列島では官衙豪族居館などの地域となる施設韓半島では百済首都周辺重要施設確認される場合いので百済系官人との関係想定できそうですこのように古代日韓関係えるこの建物最適だといますので奈良盆地での具体例をもとにえてみたいといます

 

4. 日本った百済王族大阪遺跡百済王氏氏寺百済寺跡 l 大竹弘之(靑邱考古研究院)

 

663白村江での百済復興軍大敗義慈王によって倭国派遣されていた王子禅広豊璋るべき祖国ったそこで天智天皇難波居住され持統朝には百済王称号朝廷えたこのんだ氏寺摂津百済寺(芝廃寺)百済尼寺であった

禅広曽孫百済王敬福天平21(749)任地陸奥国砂金発見黄金900東大寺盧舎那仏造立腐心中聖武天皇献上する敬福はそのにより破格位階昇進以後一族処遇盤石なものとしたまた敬福以降一族から陸奥出羽等国司鎮守府高官への補任

桓武朝長岡京遷都には百済王氏河内国交野移住たに交野百済寺造営していた交野桓武天皇信任けたのが敬福百済王明信であった桓武嵯峨両天皇頻繁交野行幸折毎百済寺一帯舞台饗応りひろげ一族昇進にあずかる一方後宮子女入内させ外戚としての地位めたというしかし桓武天皇崩御後には次第逼塞していく

百済寺跡はこうした百済王氏交野移住以後活動舞台であり盛衰にした遺跡であったそして百濟王神社百済寺跡とともに百済王氏歴史えている

 

 

5. 京都府南部(山城地域)韓半島関連遺跡遺物 - 古代寺院中心に l  菱田哲郎 敎授(京都府立大学)

 

京都府南部山城地域王権構成する畿内まれ倭国国家形成段階から重要役割たしてきた韓半島からの渡来人痕跡畿内諸地域同様められるとりわけ宇治市街遺跡森垣外遺跡5世紀から顕著渡来系遺構遺物があり王権拠点周辺技術知識をもった渡来人集住していたことがうかがわれる6世紀には仏教百済からわりその飛鳥寺造営からは本格的寺院建設されるようになった京都府南部山城地域7世紀前半から寺院まれた地域つであり今日まで法統える広隆寺をはじめ古刹してきたその背景にはこの定着した渡来人である秦氏活躍がありとりわけ新羅との外交などでも活躍したことが遺跡遺物にもれているそして南山城地域にはコマの地名のほか高句麗との関係物語資料される高句麗使のルートにも沿っていたことがその背景にある山城地域のちに長岡京平安京都城成立するがその基盤となったのは韓半島からの渡来人根付かせた技術であったとえられる